pua nānā lā

おひさまのような花

『ドリアン・グレイの肖像』…(6)

【James Vane -仲田拡輝-】2

 

「十字架を背負い復讐を誓うジェームズ」

 

旅先で姉の死を知り、「プリンス・チャーミング」への復讐を誓うジムの、遺恨に歪んだ表情と怒りに満ちた声。彼(つまりジェイムズ・ヴェインというキャラクターと、仲田拡輝くん本人)のことを好きな私にとっては、見ているのが辛い場面だった(と言いつつ、セットの十字架のキャスターを転がす音が聞こえた瞬間に反射的に上手の方を向いて釘づけになってしまう自分がいたのだが。)が、同時に詩的なリズムを持った台詞が美しく感じられ気に入っているシーンでもあった。

この場面の最大の特徴は、何と言ってもジムの独白のみで構成されている点だ。任されたジムの役割は大きい。なぜなら彼の魂の叫びが悲痛であればあるほど、ドリアンの行為の残虐性が際立ち、その後のストーリー展開に重みが増すからである。

 

物語の終盤において「悪魔に魂を売った男」と評される程の悪事を重ねているドリアンであるが、具体的に明かされているのはシヴィルに酷い言葉を投げつけ別れを告げたこと、そしてバジルを殺害し証拠を隠滅したことの2件のみだ。だからこそ、彼の魂の醜さと肉体の美しさをより際立てる為には、その転落の始まりとも言えるシヴィルとの一件がより残酷に描かれる必要がある。シヴィル亡き後、彼の罪を責めることが出来るのは、実の弟であり彼女を心から愛したジムただ一人だ。そしてその立場における役割を、彼はこの場面において十分に果たしたと言える。

 

「呪いの言葉は…プリンス・チャーミング。」の急激な温度変化。燃え盛る炎をそのまま凍らせたようだ、と感じた。そして、自分に言い聞かせるように繰り返す誓い。若者らしい熱気に任せて口にしたその言葉が、目の前にシヴィルがいない今、恐ろしいほどの現実性をもって再現される。「まだ子供だから」と姉に窘められてむくれたときのあどけなさが消え去った彼の眼差しの先にあるのは、ドリアンの胸にナイフを突き刺す瞬間、その一点のみである。復讐の燃料として一番強力なのは、恨みでも怒りでも、あるいは悔しさでもなく、悲しみなのかもしれない。十字架を背負う彼の姿を見ていて、そんなことを思ったのだった。

 

 

シロツメクサのネックレス」

 

今作のジェームズを語る上で、欠かせないキーワードとなるのが「シロツメクサ」だ。ロンドンで過ごす最後の日に姉からもらったシロツメクサのネックレスを、肌身離さず身につけるジム。十字架の下で復讐を誓いながら、またアヘン窟で命尽きる瞬間や死後ドリアンの妄想の中に現れる時(また、でさえ、控え目に彼の首元を飾る白い花。似つかわしくないその純粋なかわいらしさがどこかシヴィルの面影を匂わせるようで、かえって場面の残酷さやおぞましさを際立てていたように思う。原作にはない、視覚的なアプローチのできる劇作品ならではの演出だ。なぜグレンは、二人を繋ぐ花にシロツメクサを選んだのだろうか。

 

気になって調べてみたところ、シロツメクサ花言葉は「幸福」「約束」「私を思って」「私のものになって」そして「復讐」。どきっとした。並べられた言葉のどれもが、物語に、そしてヴェイン姉弟に深く関わっているように思えるからである。シヴィルがジムの「幸福」を願って、旅立つ彼への餞に編んだネックレス。彼女のことを傷つけるやつがいたら殺してやるという弟の誓いに対し、彼女はそんな誓いは必要ないと言う。なぜならドリアンは、「私のものになって」と言う彼女の願いを受け入れ、永遠に愛してくれるからと。しかし、この願いは叶わず、シヴィルは悲しみの中で自ら死を選ぶこととなる。残されたジムは首にかけられたネックレスを握りしめ、彼女との「約束」を果たすためプリンス・チャーミングへの「復讐」を誓う。また、四葉のクローバーには、ある司教が布教活動の際これを使って十字架を表現し教義を広めたというエピソードがあり、この「十字架」というシンボルも実際に劇中においてジムの独白の場面でも使用されていることから、これらのリンクが偶然とは考えにくいことは明らかである。

弟の幸せを祈る姉が首にかけた幸福の象徴のはずの花が、結果的に彼を復讐の念に縛り付け、降ろすことのできない重たい十字架を背負わせることになってしまう。皮肉な暗示である。神様は意地悪だ、と思わずにはいられない。シヴィルは、もしドリアンを恨んでいたとして、その恨みを晴らすために弟が自分の人生を投げうってまで復讐にその身を捧げることを望んだだろうか?そうではなかったはずだ。しかし、月日が経っても枯れることなく、不自然なほど白く美しいままジムの首に絡みついているシロツメクサのネックレスを見ていると、まだ少女のようなあどけなさを残したままたった一人涙の海に溺れてこの世を去ったシヴィルの、「私を思って」という心の叫びがジムには聞こえているのかもしれないな、とも思えるのだった。

 

余談だが、ある日の公演で上手の袖の浅い部分が見える席で観劇した際、アヘンの見せる妄想の中でドリアンがピアノを演奏するシーンで、スタンバイしている拡輝くんが、所謂「素」の表情のままで首にかけたシロツメクサのネックレスを確かめるように何度も触っていた。なんだかその姿が可愛くて、おぞましいシーンの真っ最中にも関わらずほっこりすると共に、公演中、ジムにとっては復讐のシンボルだったこのアイテムが、もしかすると彼にとってはお守りのような存在だったのかもしれないなぁなどとまた余計なところまで考えをめぐらせてしまった。

最終的にこのシロツメクサのネックレスとジム及び拡輝くんの関係は、彼が千秋楽の挨拶後に深々とお辞儀をした拍子に頭にネックレスが引っかかり、斬新なかぶり方の花冠のようになってしまう、という愛らしく微笑ましいエピソードでしめくくられる。演出家グレンの女性的なセンスが反映された、どの場面においても効果的に作用し、想像力を掻き立ててくれる演出であった。

 

 

 

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『ドリアン・グレイの肖像』…(5)

【James Vane -仲田拡輝-】

 

今作への出演が発表された時から、本当に心待ちにしていた。

彼の演じるJames Vaneに会える日を。

 

彼の出演決定を動機として本公演のチケットを取り、原作小説を購入し、何度も追読しては期待に胸を膨らませた私にとって、幕が開く前から『ドリアン・グレイの肖像』の主人公はジムだった。初読の際に中盤ではじめてシヴィルの弟として出てきた彼の名前を見たときには「やっと会えたね…!」と勝手に待ち人来る喜びを感じ、公演の観劇においても正直初日はシーンが途切れるたびに「で、ジムはいつ…?」と舞台袖を覗きそうになる気持ちを必死で抑えていた。

 

そして待ちわびた瞬間、舞台に現れたジムは、私の想像そのものだった。身体の大きさこそ「屈強な船乗り」であるジムにしては少しばかり小柄だが、姉を思う気持ちの大きさは原作に負けずとも劣らず、少年らしいあどけない情熱を復讐の炎に変えて宿したその瞳は、ドリアンだけでなく観る者を緊迫させた。出演時間はメインキャストの中で最も短くはあったが、今作において非常に大きな役割を果たしていたことは間違いないだろう。以下からいくつかの記事に分けて、各出演シーンといくつかのポイントに関する個人的な感想を述べたい。

 

「ロンドンで過ごす最後の一日」

 

この場面で、シヴィルの芝居をしているときとも愛するドリアンと言葉を交わすときとも異なるのびのびとした天真爛漫な魅力を引き出したのは、彼女を見つめるジムの優しい眼差しだったのではないだろうか。姉にできた「新しい友達」を巡って彼のことを不審に思うジムと、その愛の幸せな結末を信じて疑わないシヴィル。ふたりは口論になるが、両者とも根底にあるのはお互いのことを大切に思い、幸せを祈る気持ちである。それが十分に表現されていたシーンであった。

 

特にシヴィルが彼の旅先での展望について語る場面では、まだ大人とも呼べない歳であるにも拘らず異国へ出稼ぎに行く弟を不安にさせぬよう別れの悲しみを堪えて明るく勇気づけようとする姉と、そんな姉に心配をかけぬよう寂しさを覗かせつつも笑顔で応えるけなげなジムのやりとりが、切なくも温かい余韻を胸に残した。

惚れた欲目、と言われればそれまでだが、拡輝くんは瞳で芝居をする俳優だと思う。「ロンドンは今日が最後なんだ」というジムの、旅立ちの覚悟ともう二度と会えないかもしれない姉の姿を一秒でも長く映していたい・心に焼き付けておきたいという切実さ、それらを潜ませた上で残された時間を愛おしむようにやわらかに凪いだ瞳は、見つめる程海のように深く、涙を誘うシーンであった。

 

シヴィルを演じた舞羽さんが千秋楽後に投稿した、弟役の拡輝くんの今後を応援するツイートに引用された、「あなたは新しい世界へ旅立ち、…あたしは新しい世界を見つけた!」という台詞は、この場面のものである。物語上でこの場面のあと二人を待ち受けているのは悲劇的な結末だが、現実では二人のそれぞれの未来を明るい光が照らし、いつかまた舞台上で再会を果たしてくれる日が来るのを祈らずにはいられない。

 

 

 

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『ドリアン・グレイの肖像』…(4)

 

【Sibyl Vane -舞羽美海-】

 

言わずと知れた宝塚歌劇団の元トップ娘役。あの音月桂氏のお相手役という事もあって、あまり宝塚に詳しくない、あるいは観劇したことがなくても、知っているという人は多いのではないだろうか。私もその一人だ。恥ずかしながら、ジャニーズ事務所所属以外の舞台を中心に活動されている俳優さんには疎いのだが、舞羽さんはキャストが発表された際すぐに「あ、あの方が!」とわかったうちの一人であった。

今作の決定にあたって改めてお姿を拝見しようとスタッフの方の運営されているツイッターアカウントを遡ったり宣伝で出演されたバラエティ番組を視聴したりしてみたのだが、いずれを見ても大変に見目麗しく、また当然ではあるがお芝居にも定評のある方である事を改めて知り、実は初日を迎えるまでの間に勝手に一番期待値を上げてしまったのが彼女の演じるシヴィルに対してであった。

 

原作において、ドリアンはシヴィルの魅力をヘンリーにこう説明している。

「ハリー、小さな花のような顔をした、十七歳にも満たない少女を思い浮かべてみて。その頭はギリシャ人のように濃い茶色の髪を三つ編みにしていて、瞳はすみれ色をした情熱の源泉であり、唇はバラの花弁のようだ。」

舞台の上で舞羽さんは、まさにこの部分を体現したような可憐さであった。そのお名前の通りに、羽の舞うような軽やかな動きと、美しい海のように透き通った声。彼女の魅力に一瞬でとりつかれ、感動を抑えられなかった私の気持ちは、初めて劇場でシヴィルを見た日のドリアンと同様であったように思う。

 

彼女がこのシヴィルらしい少女のような可愛らしさを一番惜しみなく表現したのは、ドリアンと楽屋で初めて言葉を交わすシーンではないだろうか。観客はここで、彼女の持つギャップの大きさに驚く。舞台上でシェイクスピアのヒロインを次々に演じた一種の貫録と凄みを持つ女優シヴィル・ベインと、楽屋でドリアンの投げたバラの花を愛おしそうに胸に抱きながらはにかむあどけない彼女が、とても同一人物に見えないためである。この部分の演じ分けが素晴らしかった。

余談だが、今回の上演で唯一私が毎回泣いたシーンはここであった。ドリアンの自分に対する賞賛の言葉に対して「みんな喜びます」と返し、頬を赤らめて彼を「プリンスチャーミング様」と呼ぶ、そのけなげさやいたいけさを見ていると、これから彼女の身に起こる悲劇を思い自然に涙が出たのだ。観客の感情をそんな風に自然と芝居の世界に誘ってしまう彼女の演技を見て、ヒロインの素質とはまさにこういったものかと感嘆したのを覚えている。

 

そして舞羽さんとシヴィルのもう一つの共通点は、その美しさが単に表面上だけのものではないという点であろう。ドリアンは、彼女の容姿を賛美する一方で次のようにも言っている。

「私は彼女に飢えている。あの象牙色のちいさな身体に隠された素晴らしい魂のことを考えると、僕は恐れ多くてたまらない。」

この言葉からは、彼が肉体という視覚的な美の奥に彼女の純粋で穢れなき魂の美しさを看取していることが窺い知れる。一つ前のバジルについての記事で「肉体と魂の調和」について触れたが、シヴィルの中においてはまさにそれが実現しており、だからこそドリアンの心を捕えているのである。

そしてこのことは、舞羽さんにも言えるのではないだろうか。宝塚では音楽学校時代から、「清く、正しく、美しく」という教えを徹底していると聞いたことがある。これはまさに、精神(=魂)の美しさが外見(=肉体)の美しさに反映されるという考えに基づく指針であろう。少女時代からこのような教えの下に学び、育ち、女優として大成された彼女の背景と、常に周囲に対して愛を振りまくような笑顔を絶やさない彼女の姿勢を鑑みると、舞羽さんがあのように完璧にシヴィルを演じることが出来た理由がわかる気がする。

 

物語の概要上仕方ないことではあるが、シヴィルの出演がほぼ一幕のみだったのは残念であった。前述の場面の他に彼女が舞台に出たのは、弟のジムとロンドンで最後の一日を過ごすシーン、ドリアンに一方的に別れを告げられむせび泣くシーン、そしてアヘンがドリアンに見せる妄想の中のシーンの三場面のみである。

極めて個人的な感想であるが、私はジムとのシーンが大好きだった。自分がジム役の仲田拡輝くんのファンであるがゆえに楽しみなシーンであったことも理由のひとつであるが、それ以上に彼女の持つ愛情の深さや、包み込むような温かい人柄が表れているように思えたからだ。

実際に姉弟役のこの二人は今作をきっかけにとても良い関係を築いていたようで、千秋楽後のツイッターでは、街で見つけたシロツメクサの花に彼のことを思い出し「あなたは新しい世界へ旅立ち…あたしは新しい世界を見つけた」という台詞を引用して拡輝くんのこれからを応援する言葉を投稿している。「可愛いジム」という彼女の一言から、姉のように彼のことを可愛がってくれていたことが窺い知れるようで、なんだか私まで勝手にしあわせな気持ちになると共に、改めて彼女の女神に愛されたような容姿の美しさは、天使のように慈しみ深い彼女の心の美しさに裏付けられているのだなぁと感じたのだった。

 

物語の上でシヴィルはドリアンに恋をすることで、「現実」だと信じてきた芝居の世界が「影」であることに気づき、これによって「現実」と「影」の均衡が崩れてしまう。シヴィルはこのことを「魂」の解放と表現するが、それは言い換えればつまり「肉体」と「魂」の調和の崩壊である。ドリアンにとって「影」に現実性を与えることが出来る彼女は一種の芸術であったが、それができなくなってしまったことで彼女はドリアンの関心の対象から外れ、その結果物語の世界から自殺という悲劇的な結末をもって追放されることになる。

 

しかし、舞羽さんの演じたシヴィルがその後も尚ドリアンという男の一生に強い影響を及ぼし、それと同様に私たち観客の中にも大きな印象を残したのは言うまでもない。

 

 

 

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『ドリアン・グレイの肖像』…(3)

 

【Basil Hallward –金すんら-】

 

今後原作を再読する際、私はバジルの全ての台詞をあの暖かくて深みのある金すんら氏の声で再生することができるだろう。それは何と贅沢なことだろうか。すでに千秋楽の幕が閉じてから5日が経過しているが、彼の口からまるで歌のように発せられた心地良いバジルの言葉の音色をいまだに鮮明に思い出せる。

 

出演者陣の中で一番の年長者であり、劇団四季で数々のミュージカルの経験を積まれている大ベテラン。(お調べさせて頂いたところ、『ライオン・キング』では、スカー役を演じられていたとの事。見てみたかった…!)それゆえであろうか、原作ではドリアンを過剰に崇拝しそれによって翻弄されてしまったバジルも彼が演じると、結果的には同じ運命を辿るとはいえ、どこかその中に一本の筋がぶれずに通っているような印象を受けた。

 

前回投稿したヘンリーについての記事で、ヘンリーは「世間の人々からみた作者」を表していると書いたが、その観点から見たとき、作者はバジルについて「私が自分だと思う人物(what I think I am)だ」と述べている。一見すると対照的に見えるヘンリーとバジルの中に、断片化されたワイルドの「実際の、あるいは潜在的な自己の一部」が投影されており、その中でバジルは作者の実像がもっとも色濃く反映されていると本人が認めたキャラクターなのである。

そもそもこの物語はバジルが肖像画を描いたことからスタートしているのであり、彼は肖像画の創造主であると同時に物語の創造主である。作中では肖像画完成以降の出演シーンはあまり多くなく、見方によってはバジルが絵を完成させそれをドリアンに引き渡したその瞬間に、ドリアンから、またこの作品自体から急激に遠ざかり切り離されているような印象を受けるが、それらの関係性が単純に希薄になったわけでは決してないということは、彼が最終的に自分の描いた肖像画の下でそれを原因としてドリアンに殺害されるという方法で責任を果たすことに明確に表れている。

 

「あまりにも自分自身をこの絵に注ぎ込んでしまった」と言うバジルの言葉に暗示されるように、この肖像画の中には描き手のバジルとモデルのドリアンの魂が融合している。原作のバジルは自らを「生来独立心が強く、常に自分自身が自己の主人であった」と評価している通り、ドリアンに出会ったときその美しさに魅せられると同時に、彼の存在が自分の魂を飲みこんでしまうことに恐怖を覚える。彼はそれに反発してドリアンの魅力を芸術の範疇に押し込め、その枠組みに収めることで自分の芸術の可能性を拡げようとしたが、結果的にはむしろ彼の芸術はドリアンに乗っ取られることとなり、まさに彼の恐れていた通りその魂をあけ渡してしまったのである。ヘンリーが極めて意識的に、綿密な計算の下にドリアンに影響を与えたのに対して、このバジルとドリアンの魂の交感は無意識的、あるいは本能的に起こったものと言える。

 

また、バジルとドリアンの魂の融合と同時に、この肖像画にはドリアンの魂と肉体の融合が映し出されている。ワイルドの著書『芸術家としての批評家』に、「肉体の眼で見る以上に魂の眼で見る」という言葉があるが、バジルもまさにその信条の通り、表象や象徴のみから美を見極めることがいかに危険で無意味な行為であるかを知っていた。だからこそ彼はドリアンの無垢な魂を崇拝し愛し、それがハリーの誘惑によって肉体から分離し汚れていくことに対して身の引き裂かれるような悲痛の思いを感じたのだ。

 

ドリアンの数えきれない醜聞を知りながらも彼の潔白を信じようとし、ついにその希望がないということがわかると、彼はドリアンに自分の罪を悔い改めるように諭す。そして死の直前まで、その命を奪った張本人であるドリアンのために祈り続けたバジル。

 

破滅に向かっていく彼を心の底から心配し、そのきっかけを作ったことに対する重い責任を感じ、正しい方向に導きたいという願いと、それでもなお彼の中にある純粋さを信じたいという慈しみの心を一言で表現するとすれば、それはまさに「親心」ではないだろうか。金氏の演じたバジルからは、芸術の対象としてのドリアンへの崇拝よりも、むしろそれが痛々しく感じる程に見て取れた。

 

ドリアンを演じた中山優馬氏は21歳。金氏とはちょうど親子ほどの年の差である。

そんな二人の共演だからこそ、今作のバジルは原作の印象よりもより温かく、穏やかに、ドリアンに父親のような無償の愛情を捧げる人物として表現されたのかもしれない。

 

そして、実際に共演の年若い俳優陣を息子のように可愛がってくださる金氏の包み込むような優しさが役に反映されていたがゆえに、バジルという人間の生き様は劇中においてより一層の深みと説得力を持つことができたのだろう。

  

 

 

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『ドリアン・グレイの肖像』…(2)

 

【Henry Wotton -徳山秀典-】

 

観劇前に原作を読みながら、一番役に当てはめられなかったのが彼だった。徳山秀典氏が、というよりヘンリー自体が、どんな表情であのドリアンを誘惑する耽美なパラドックスを口にし、どんな風にページの外に出てきて舞台の上を動きまわるのか、全く具体的に想像できなかったのだ。

 

失礼ながら徳山氏の出演作はこれまで拝見したことが無かったのだが、子役の頃から俳優だけでなく歌手・声優としても幅広く活動されているベテランとのこと。今作の出演が決まってから拝読した雑誌での対談内容や容姿からの印象はシンプルに「さわやかな美青年」といったところで、あの独創的な、一風どころではないほど変わっているヘンリーのイメージとはかけ離れており、一体どんなヘンリーを演じてくれるのだろうと楽しみにしていた。

 

そして迎えた初日、彼がピアノの演奏の音色に乗せられるようにどこからともなく舞台上に現れ、いたずらっぽくドリアンに近づき驚かせて喜ぶその姿を見たとき、とてもわくわくしたのを覚えている。あぁ、ヘンリーだ、と。その表情・立ち居振る舞い・語り口…すべてに、ドリアンをはじめ周囲の人々が思わず見入り、耳を傾け、「影響」を受けずにはいられなくなるようなヘンリーの魅力が存分に表現されていたのだ。

 

そして、そう感じさせるのは単純に彼がヘンリーの表面的な特徴を忠実に模写しているからではないと確信したのは、二幕に入ってからだった。喜劇の登場人物にふさわしいような愉しげで軽やかな語り口と美しい悪魔のようにドリアンを享楽主義に誘う笑顔の端々に時折見せる、深い海の底にいるような憂い。それは紛れもなく作者オスカー・ワイルドの孤独と悲哀の表れであった。

 

本作が作者の自伝的な性格を有していることは言うまでもないが、作者自身の解釈によれば、その中でヘンリーというキャラクターは「世間から見た自分」という役割を果たしている。服装から、言動、審美、価値観に至るまで、まるで未来からヴィクトリア時代にタイムスリップしてしまったかのごとく常に人より一歩も二歩も先を行き、それゆえに周囲から理解されず、また自らも社会と調和することを投げ出してしまったワイルド。自分の話す言葉によってその本心を巧みに隠し、笑顔を振りまくほどに心を閉ざしていくヘンリーの中にも、徳山氏はその人知れない寂寞や一種の絶望を見出したのだろう。そしてそれこそが、彼の演じたヘンリーの魅力の正体であった。

 

今回の上演についてのいくつかのレポートの中に、「ヘンリー卿も肖像画を持っているのではないか。」と書かれているものがあった。なるほど、と思う。確かに彼はドリアンに負けずとも劣らないほど、物語の終盤に差し掛かるにつれて、むしろ儚げな美しさを増していた。

 

ヘンリーはドリアンとの別れが近づいているのを察していたのだろうか。アヘンの見せる妄想の中で演奏する彼のピアノにうっとりと聞き惚れる姿や、「こんな素晴らしい夜だ、やっぱりオペラを見に行こう」と誘う声、そして月明かりの下で彼の手を取りダンスを踊る時の表情。そこからは彼らしい独特の引力が消え、むしろ潮の満ちるような穏やかな優しさの中に、静かな諦めの色が浮かんでいるようだった。理想を追求しながらも、どこかで夢と現実の間に埋めることのできない隔たりがあることを知っていたワイルド。ヘンリーというキャラクターの向こうにあるワイルド自身のその心を徳山氏が鋭く理解し、その上で決して露骨な表現にはならぬよう演じたことによって、今作の印象に上品な切なさの余韻を残していたように思う。

 

“in the gutter, but some of us are looking at the stars”

「僕たちは皆んな溝の中にいるが、それにしても星を見上げる人がいる」

 

ワイルドの言葉である。彼の逆説的見識を基にこれを解釈するとき、私たちは美しい満天の星空からふと目線を落としたときの底知れぬ絶望感を知る。自らのいる場所が、ますます薄暗い溝の中に沈んでしまったように思われるのだ。しかし、それを知りながらそれでも尚ヘンリーは美しいものを瞳に映し続け、一瞬を愉しむことに人生を捧げた。そして、彼はドリアンの美貌を愛しながらも、その肉体と魂を自らの手で引き離し破滅へと導いた。自分をすり減らし命を燃やす、ある意味では自傷行為ともいえるようなその行為によって輝く魂の繊細な美を、徳山氏は彼自身をもって見事に表現していたのではないだろうか。

  

 

 

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『ドリアン・グレイの肖像』…(1)

『ドリアン・グレイの肖像』

16th Aug.- 6th Sep.

 

作者オスカー・ワイルド自身の耽美主義・快楽主義的なエッセンスを惜しみなく反映させた文章の羅列と個性的な登場人物が魅力的な原作。気づけば追読を重ね、自分の中でそれなりにイメージを作り上げてから初日を迎えることになったのだが、幕が開いて一度俳優陣が動き出した途端、あっという間にそのイメージの向こうの新しい『ドリアン・グレイの肖像』の世界に心地よく誘われた。

 

主演の中山優馬くんはじめ、演出家グレンの意向により一度しか原作を読まず稽古に挑んだという俳優陣。その好演が非常に印象的だったので、 メインキャストの5名について(アンサンブルの方々の演技もとてもパワフルで素敵でした。)、主観的ではあるが感想を記しておきたい。

 

 

【Dorian Gray -中山優馬-】 

 

誰もが羨む芳しい若さ、そして眩いばかりの美しさ。いくら優れた演技力を有していたとしても、ドリアンを説得力をもって演じることが出来る人なんてそうそういるものじゃない。 そしてしかし、中山優馬にはそれができると、演出家は見出したのだ。

 

どんな身の毛のよだつような悪行を重ねても、純真無垢の心の時代そのままの姿を失わないドリアン。その様子を表現する人間に絶対的に必要なのはまさに純真無垢の美しい心ではないだろうか。彼の演じるドリアンの瞳にはまさにその心の美しさが一瞬も失せることなく見て取れた。

シヴィルに酷い言葉を浴びせながら、あるいはバジルの背にナイフを突き刺す瞬間でさえ、彼の瞳はまるで今まで醜いものを映したことなど一度も無いかのように、どこまでも透き通っていた。

このアンバランスさが見事に表現されていたからこそ、作品により一層信憑性が生まれていたのは言うまでもない。

 

彼の美しさは肖像画を嫉妬させる程であった。もしこの作品の唯一の問題点を挙げるとすれば、それは本来我々を感嘆させるべき肖像画が、彼の美しさを前に少々霞んでしまっていた点である。それほどに、彼の美しさには一点の濁りもなかった。少なくとも私は、そう感じた。

 

また、原作のドリアンの印象と比べて際立ったのは彼の無邪気な可愛らしさであった。

ハリーのパラドックスに耳を傾けるときの、何もかも素直に受け入れてしまうような危ういあどけなさや「ぼくはロミオを嫉妬に狂わせたい!」と初めての恋に戸惑いもなく高揚し頬を上気させる姿…

まだまだ若いとはいえ、二十年間生きてきた 生身の人間が(しかも芸能界という厳しい世界で)そんな風に内側から溢れるような純粋さを表現するというのは、決して誰にでもできることではないはずだ。…もしも彼が肖像画を持っているなら、話は別であるとして。(笑)

 

「会えばきっと好きになる」 

「誰だって好きになるわ」 

プリンス・チャーミングを愛したシヴィルが、彼のことを弟のジムに説明する際の台詞である。

 

まさにそんな優馬くんの人柄があったからこそ、この舞台は作品として成立し、そしてあのような感動的な千秋楽を迎えることができたのだろう。

 

 

 

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