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おひさまのような花

『ドリアン・グレイの肖像』…(1)

『ドリアン・グレイの肖像』

16th Aug.- 6th Sep.

 

作者オスカー・ワイルド自身の耽美主義・快楽主義的なエッセンスを惜しみなく反映させた文章の羅列と個性的な登場人物が魅力的な原作。気づけば追読を重ね、自分の中でそれなりにイメージを作り上げてから初日を迎えることになったのだが、幕が開いて一度俳優陣が動き出した途端、あっという間にそのイメージの向こうの新しい『ドリアン・グレイの肖像』の世界に心地よく誘われた。

 

主演の中山優馬くんはじめ、演出家グレンの意向により一度しか原作を読まず稽古に挑んだという俳優陣。その好演が非常に印象的だったので、 メインキャストの5名について(アンサンブルの方々の演技もとてもパワフルで素敵でした。)、主観的ではあるが感想を記しておきたい。

 

 

【Dorian Gray -中山優馬-】 

 

誰もが羨む芳しい若さ、そして眩いばかりの美しさ。いくら優れた演技力を有していたとしても、ドリアンを説得力をもって演じることが出来る人なんてそうそういるものじゃない。 そしてしかし、中山優馬にはそれができると、演出家は見出したのだ。

 

どんな身の毛のよだつような悪行を重ねても、純真無垢の心の時代そのままの姿を失わないドリアン。その様子を表現する人間に絶対的に必要なのはまさに純真無垢の美しい心ではないだろうか。彼の演じるドリアンの瞳にはまさにその心の美しさが一瞬も失せることなく見て取れた。

シヴィルに酷い言葉を浴びせながら、あるいはバジルの背にナイフを突き刺す瞬間でさえ、彼の瞳はまるで今まで醜いものを映したことなど一度も無いかのように、どこまでも透き通っていた。

このアンバランスさが見事に表現されていたからこそ、作品により一層信憑性が生まれていたのは言うまでもない。

 

彼の美しさは肖像画を嫉妬させる程であった。もしこの作品の唯一の問題点を挙げるとすれば、それは本来我々を感嘆させるべき肖像画が、彼の美しさを前に少々霞んでしまっていた点である。それほどに、彼の美しさには一点の濁りもなかった。少なくとも私は、そう感じた。

 

また、原作のドリアンの印象と比べて際立ったのは彼の無邪気な可愛らしさであった。

ハリーのパラドックスに耳を傾けるときの、何もかも素直に受け入れてしまうような危ういあどけなさや「ぼくはロミオを嫉妬に狂わせたい!」と初めての恋に戸惑いもなく高揚し頬を上気させる姿…

まだまだ若いとはいえ、二十年間生きてきた 生身の人間が(しかも芸能界という厳しい世界で)そんな風に内側から溢れるような純粋さを表現するというのは、決して誰にでもできることではないはずだ。…もしも彼が肖像画を持っているなら、話は別であるとして。(笑)

 

「会えばきっと好きになる」 

「誰だって好きになるわ」 

プリンス・チャーミングを愛したシヴィルが、彼のことを弟のジムに説明する際の台詞である。

 

まさにそんな優馬くんの人柄があったからこそ、この舞台は作品として成立し、そしてあのような感動的な千秋楽を迎えることができたのだろう。

 

 

 

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