pua nānā lā

おひさまのような花

『ドリアン・グレイの肖像』…(2)

 

【Henry Wotton -徳山秀典-】

 

観劇前に原作を読みながら、一番役に当てはめられなかったのが彼だった。徳山秀典氏が、というよりヘンリー自体が、どんな表情であのドリアンを誘惑する耽美なパラドックスを口にし、どんな風にページの外に出てきて舞台の上を動きまわるのか、全く具体的に想像できなかったのだ。

 

失礼ながら徳山氏の出演作はこれまで拝見したことが無かったのだが、子役の頃から俳優だけでなく歌手・声優としても幅広く活動されているベテランとのこと。今作の出演が決まってから拝読した雑誌での対談内容や容姿からの印象はシンプルに「さわやかな美青年」といったところで、あの独創的な、一風どころではないほど変わっているヘンリーのイメージとはかけ離れており、一体どんなヘンリーを演じてくれるのだろうと楽しみにしていた。

 

そして迎えた初日、彼がピアノの演奏の音色に乗せられるようにどこからともなく舞台上に現れ、いたずらっぽくドリアンに近づき驚かせて喜ぶその姿を見たとき、とてもわくわくしたのを覚えている。あぁ、ヘンリーだ、と。その表情・立ち居振る舞い・語り口…すべてに、ドリアンをはじめ周囲の人々が思わず見入り、耳を傾け、「影響」を受けずにはいられなくなるようなヘンリーの魅力が存分に表現されていたのだ。

 

そして、そう感じさせるのは単純に彼がヘンリーの表面的な特徴を忠実に模写しているからではないと確信したのは、二幕に入ってからだった。喜劇の登場人物にふさわしいような愉しげで軽やかな語り口と美しい悪魔のようにドリアンを享楽主義に誘う笑顔の端々に時折見せる、深い海の底にいるような憂い。それは紛れもなく作者オスカー・ワイルドの孤独と悲哀の表れであった。

 

本作が作者の自伝的な性格を有していることは言うまでもないが、作者自身の解釈によれば、その中でヘンリーというキャラクターは「世間から見た自分」という役割を果たしている。服装から、言動、審美、価値観に至るまで、まるで未来からヴィクトリア時代にタイムスリップしてしまったかのごとく常に人より一歩も二歩も先を行き、それゆえに周囲から理解されず、また自らも社会と調和することを投げ出してしまったワイルド。自分の話す言葉によってその本心を巧みに隠し、笑顔を振りまくほどに心を閉ざしていくヘンリーの中にも、徳山氏はその人知れない寂寞や一種の絶望を見出したのだろう。そしてそれこそが、彼の演じたヘンリーの魅力の正体であった。

 

今回の上演についてのいくつかのレポートの中に、「ヘンリー卿も肖像画を持っているのではないか。」と書かれているものがあった。なるほど、と思う。確かに彼はドリアンに負けずとも劣らないほど、物語の終盤に差し掛かるにつれて、むしろ儚げな美しさを増していた。

 

ヘンリーはドリアンとの別れが近づいているのを察していたのだろうか。アヘンの見せる妄想の中で演奏する彼のピアノにうっとりと聞き惚れる姿や、「こんな素晴らしい夜だ、やっぱりオペラを見に行こう」と誘う声、そして月明かりの下で彼の手を取りダンスを踊る時の表情。そこからは彼らしい独特の引力が消え、むしろ潮の満ちるような穏やかな優しさの中に、静かな諦めの色が浮かんでいるようだった。理想を追求しながらも、どこかで夢と現実の間に埋めることのできない隔たりがあることを知っていたワイルド。ヘンリーというキャラクターの向こうにあるワイルド自身のその心を徳山氏が鋭く理解し、その上で決して露骨な表現にはならぬよう演じたことによって、今作の印象に上品な切なさの余韻を残していたように思う。

 

“in the gutter, but some of us are looking at the stars”

「僕たちは皆んな溝の中にいるが、それにしても星を見上げる人がいる」

 

ワイルドの言葉である。彼の逆説的見識を基にこれを解釈するとき、私たちは美しい満天の星空からふと目線を落としたときの底知れぬ絶望感を知る。自らのいる場所が、ますます薄暗い溝の中に沈んでしまったように思われるのだ。しかし、それを知りながらそれでも尚ヘンリーは美しいものを瞳に映し続け、一瞬を愉しむことに人生を捧げた。そして、彼はドリアンの美貌を愛しながらも、その肉体と魂を自らの手で引き離し破滅へと導いた。自分をすり減らし命を燃やす、ある意味では自傷行為ともいえるようなその行為によって輝く魂の繊細な美を、徳山氏は彼自身をもって見事に表現していたのではないだろうか。

  

 

 

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