pua nānā lā

おひさまのような花

『ドリアン・グレイの肖像』…(7)

【James Vane -仲田拡輝-】3

 

「原作との比較」

 

今作を観劇された方の中には原作ファンの方から未読の方までいらっしゃるかと思うのだが、おそらくニュートラルな状態で読んだ場合、ジェームズ・ヴェインというキャラクターにここまで情熱を傾ける人間は少ないだろう。原作でのジムは今作と異なり、決してメイン(あるいは準メイン)と呼べるようなキャラクターではない。拡輝くんの出演が決定した際、原作がすぐに手に入らなかったために無粋ながらWikipediaで原作のあらすじを読んでしまったのだが、「しかしジェイムズはそこで兎狩りの誤射により死ぬ。」の一言で片づけられているこの不憫なキャラクターがまさか彼の記念すべき初外部舞台の役だとは…もしかしてめちゃくちゃチョイ役なのでは……と初読の前には正直思っていた。

その後原作に当たり、描写される彼の容姿や仕草、言葉のひとつひとつを拡輝くんに重ね合せて想像することで私は限られた数行の中からジムの魅力をいくつも発見し、結果的に演じた本人に負けずとも劣らないのではないかと思ってしまうほどこのキャラクターを愛すことになるのだが、それは決して一般的な読み方とは言えないだろう。

 

いくつか読んだジムに関するアナリシスのうち(と言っても非常に限られた数しか見つけられなかったのだが)、的確に感じられたのが、アメリカのhomework helpサイトshmoopにあった “he is a simple character he's totally motivated by love, jealousy, and revenge.(彼は単純なキャラクターで、全体を通して愛と嫉妬と復讐だけに動かされている。)”という記述である。そして、このような人物のことを“He's just one of fate's punching bags. He isn't clever or handsome enough to make it in Wilde's world.(その存在はただの運命のサンドバッグだった。ワイルドの世界観を構成する一員になりえる程、彼は賢くもハンサムでもなかったのである。)”と分析する。言い換えれば、彼はbrawn over brainsの代表的な存在で、そういう人間に作者はまったく興味がなかったのだ、と。私見を交えれば、随分な言い草じゃないかと言いたいところだが(笑)、これは秀逸な表現であり、原作でのジムがまさにこのような存在であることは否定できない。

 

では、今作においてはどうであったか。私は、拡輝くんの演じたジムが、“enough to make it in Glen’s world”、つまりグレンのイメージする世界観を創り上げるために重要なピースとなっていたように思う。演出家の解釈自体の問題が大きく関わっているにせよ、物語を限られた公演時間の型にはめなければならない小説の演劇化で、原作のキャラクターより大きな役割を任されるというのは、実は結構すごいことなのではないだろうか。

 

原作のジムと今作のジムを比較したとき、特徴的な違いはその最期にある。原作で彼は前述のように再度ドリアンに復讐を果たそうと近づいたところで兎狩りの誤射により事故死する。尺の関係であれ以上場面数を増やせないという点、また屋外、それも山中での猟はあのシンプルなセットのみを用いた舞台上で再現するのが難しいという点など物理的な理由はあるにせよ、「ジムがドリアンを庇って死ぬ」という設定はある意味大胆な改変とも言える。なぜならこの経緯が追加されることで、ドリアンのジムに対する態度自体が変わらざるを得ないからである。原作で、厩に安置されているジムの死体を見に行って「これで自分の安全が保障された」と嬉し涙を流すドリアンがなんとも言えず不気味で、ドリアンの魂がいよいよ芯から腐食してしまったことが象徴されているようで印象的だったのだが、今回の作品ではヘンリーからアランに刺された男が死んだことを聞いて、思いつめたような顔をする。そこには単純に自分の命を脅かす人物が死んだことに対する安堵だけでなく、自分を庇った男の死に対する罪悪感に近い動揺や、その死が同じく自分のために発狂した男によってもたらされたものであることを、ある程度重く受け止めている様子が見てとれる。のちにドリアンはこの事件(およびバジルの死)を自分にとって有利なものと捉えるようになるが、あの複雑な表情から察するに、この時点ではむしろ自分自身の罪が底なし沼のように深くなっていくことに対する恐怖や絶望の方が大きいのではないだろうか。この態度の違いは、ジムというキャラクターとその死に様が今作において主人公の設定にまで深く関与していることを表していると言える。

 

例えば姉を愛し心配する気持ちの裏返しとして現れる無愛想な言葉の端々に、またあるいは間違った相手を殺そうとした時に深く反省し謝罪する様子や、そしてそれ以外のあらゆる一行一行から…。グレンがジムという人間の生き様を読み解き、人間性を見出し、役者の身体にその魂を吹き込む。そしてそれが、仲田拡輝のネーチャーと出会い、今作のジムが生まれたのだ。出演者陣は今回グレンの意向で原作(あるいは映画化作品)に極力当たらず、見ても一度までというアドバイスを受けていたと聞いたが、彼がそのようにニュートラルな状態でグレンの描くジムにぶつかっていったこともキャラクターの可能性を拡げるためにうまく作用したのかもしれない。

 

なんにせよ、出番という短い人生のなかで声を発し、動き回り、いきいきと輝くジムを見ていると、「役が役者の中で生きる」ということの神秘について改めて考えさせられたのであった

 

 

 

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