『ドリアン・グレイの肖像』…(8)
これで『ドリアン・グレイの肖像』に関する感想は最後です。
自己満足の評論にお付き合い頂きありがとうございました!
また同じカンパニーでの何か公演があったらうれしいなぁ~と、
勝手に期待し願っております…!
(歌と踊りがお上手な方揃いだからミュージカルもいいなぁ。)
「恋をするように。」
現在は全く別種の職に就いているが、ほんの数か月前まで大学の文学部で英米文学の研究をしていた。シェイクスピアも、サリンジャーも、メルヴィルも読んだ。正直英語史なんかの概論系の授業にはあまり興味を持てず決して勤勉な学生とは言えなかったが、演習は好きで、同期の学部生と比較しても与えられた課題作品にはそれなりに熱心に当たり、また結構楽しんで勉強していた方だと自負している。
しかし、その中で忘れかけていたことがある。
それは、「恋をするように」読んだり、観たりすることである。
このブログを読んで下さる方にも、小説や漫画の登場人物に本気の恋心を抱いた経験、一度はあるのではないだろうか?私には、ある。中学時代に母の本棚から引っ張り出してきた「エースをねらえ!」の宗方コーチのことは今でも勝手に人生の師として仰いでいるし、「ベルサイユの薔薇」のアンドレの生き様にはこれこそが真実の愛と大変な感銘を受けた。その時私はこれらの登場人物に、まるで学校の先輩かなにかを好きになるのと同じように、疑いようもなく恋をしていた、ように思う。彼らの言葉を心の中で反芻し、仕草や表情にときめき、クライマックスでは悲しい結末を知りながら何度読んでも幸せを願わずにはいられなかった。
「恋は盲目」という言葉があるように、恋をするということは、ある意味では客観的な視点を見失うことである。ある登場人物を特別に思うことで、その作品に対する見方は偏ってしまうことは避けられない。そのリスクを明確に意識していたというわけではないが、私は大人になるにつれて、そして曲がりなりにも一文学研究者として数々の作品に当たる中で、知らず知らずのうちにこういう作品の楽しみ方から遠ざかっていたように思う。
そんな私に再び恋をする喜びを教えてくれたのが、
他の誰でもないジムだった。
私自身は恋愛に全く無頓着な人間だが、「恋をすると世界が違って見える」なんて言葉はよく聞く。愛する人の好きなものは自分も気に入るようになり、恋する人がそのどこかにいると思うだけでいつもの街が特別に思えたりする。そういうものではないだろうか。
そして同じことが、本を読んだり、演劇を観たりする上でも起こるのだ。そのことを、今作を通して再発見することができたと感じている。拡輝くんの演じるジムがその世界の中にいてくれるから、私は『ドリアン・グレイの肖像』を自分だけの読み方で読み、自分だけの見方で観ることが出来る。私にとってこの作品の主役は間違いなくジェームズ・ベインで、それは客観性を失った偏った視点に違いないけれど、その傾きのおかげで他の人とは違う新しい景色が見える。ずいぶん壮大なことを言うやつだと思われるかもしれないが、私にはこの読み方が、文学作品を感受する上でのひとつの可能性であるようにすら思えるのだ。
作品世界の変化-…例えば、ジムの死に際の姉に対する「すまない」という台詞。復讐の約束を果たせなかったことに対する謝罪。このたった一言の台詞の言い回しを拡輝くんがほんの少し変えるだけで、彼を中心として『ドリアン・グレイの肖像』を捕えようとする者の解釈は全く違ってくる。
初日に観劇した際、彼はとても苦しそうに、泣きそうな声で絞り出すように「すまない」と言った。それを聞いた時、感じたのは悔しさだった。ジムの無念が痛いほど伝わり、なんのために彼は18年も自分の人生を犠牲にして生きてきたのだと、何としてもドリアンを殺してやればよかったのにと思った。
しかしまたある日、彼はふわっと力が抜けるように、悲しみの中にどこか穏やかな安らぎを感じさせるトーンで同じ「すまない」と言う台詞を口にした。すると、私は思ったのだ。これで良かったのだと。
そう、ヴェイン姉弟の悲劇的な物語。
そこにはひとつだけ希望がある。
それは、二人が天国でまた会えるということだ。
なぜならジムは、ドリアンの嘘のおかげで殺人を犯さずに済んだから。シヴィルはジムに「そんな誓いは必要ないのよ」と言ったのだ。彼女は、幸せを願って渡したシロツメクサのネックレスが弟の首を絞めることなど望んでいなかった。ジムは、ドリアンを殺してはいけなかったのだ。罪のない二人は、きっと神のご加護の下永久の祝福を受けるだろう。そう思えたのだった。
中山優馬くんが、今作に関するインタビューで「物語自体は悲劇だが、最後に何らかの希望が感じられるような作品にしたい」と言っていた(言い回しはうろ覚えだが確かこんなような趣旨だったはずだ)。
数々の苦労の跡を残すように無数の皺が刻まれ、髪もすっかり白くなってしまったジムを、シヴィルはすぐに見つけられるだろうか。きっと、見つけるはずだ。パンブレットの稽古風景のページに掲載されている、少女のようなとびきりの笑顔で拡輝くんと抱擁を交わす舞羽さんの姿が浮かぶ。
目を閉じると浮かぶ、再会を果たして幸せに笑いあう二人のイメージ。それが、私にとっての『ドリアン・グレイの肖像』の結末に射す一筋の光だ。
fin.